1937年5月29日、神奈川県横浜市磯子区滝頭に加藤和枝として生まれる。
1943年6月、第二次世界大戦に父である増吉が出征するため、その壮行会が開かれその場で唄った「九段の母」に涙する者たちを見た母・喜美枝は可能性を見出し、和枝の歌による慰問活動を始める。
1947年、地方巡業中に乗っていたバスが前方からのトラックを避けきれず崖に転落したが、バンパーが桜の木に引っ掛かり運よく助かった。父はこの一件で歌をやめさせようとしたが、和枝は「歌をやめるなら死ぬ!」と宣言した。
1948年2月、神戸での興行を取り仕切っていた三代目山口組組長田岡一雄に気に入られる。また、ボードビリアンとしてあきれたぼういずとしても人気を博した生涯にわたる師匠川田義雄とこの頃出会う。
1948年3月8日、神奈川新聞に「美空ヒバリ」という出演者が出る公演広告が掲載。
1949年7月30日、11歳の頃「河童ブギウギ」でレコードデビュー
1952年、映画主題歌「リンゴ追分」が70万枚という当時の史上最高売り上げを記録。
1955年、映画「ジャンケン娘」に出演したことをきっかけに、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」として人気を博するようになった。
1960年、「哀愁波止場」で第二回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。名実ともに「歌謡界の女王」と称されるようになった。その後も「柔」(180万枚)、「悲しい酒」(145万枚)、ブルーコメッツとの共演が話題となった「真赤な太陽」(140万枚)などを発表し、まさしくひばり絶頂期であった。
1973年、実弟が起こした暴力団がらみの不祥事により起こったバッシングにより、10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退。以降正式に出場歌手として復帰することはなかった。
1980年代に入ると、実母や組長の田岡、親友の江利チエミが相次いで亡くなり、ひばりは孤独に苛まれていく。
1985年頃より、ひばりは腰痛を訴えはじめ、1987年緊急入院。慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症と診断された。
1988年4月11日、東京ドームのこけら落としとして不死鳥コンサートとして知られる公演を行う。ひばりの完全復活を印象づけたイベントであったが、この頃すでにひばりの身体は常人であれば立つことすらままならない程の激痛に襲われていた。
1989年1月11日、シングル「川の流れのように」を発売。元号が「昭和」から「平成」へ変わったこの年、肺炎による呼吸不全により死去。
「リンゴ追分」
美空ひばりの代表作。一部の国ではレゲエのクラッシックとして有名。
「真赤な太陽」
当時人気絶頂であったブルーコメッツとの共作。赤いドレスで踊るひばりに衝撃を受けた人が多かったという。
「愛燦燦」
ベテラン作曲家小椋佳のペンによる「川の流れのように」と双璧を成すひばりの代表作。
「みだれ髪」
ひばり後期の名曲。1987年当時はすでに廃れていたオーケストラと伴奏との一発録りであった。