1926年12月25日、愛知県名古屋市に生まれる。
1939年、父親に倣い僧侶として修行するため、小僧になるため上京。
1946年、テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。
1947年、進駐軍の影響でジャズが流行し始めたことで、手に職をつけるためギターを練習し始める。この時、ハナ肇と出会う。
1954年、ギタリストを探していたフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。ギタリストではなくコメディーの才能を開花させていく。
1957年、谷啓らのいる「キューバン・キャッツ」に移籍。ジャズ喫茶などで人気を博し、その後「ハナ肇とクレージーキャッツ」と改名。
1961年、クレージーキャッツの一員として日本テレビの番組「シャボン玉ホリデー」に出演。「お呼びでない?」などのギャグで注目される。
1962年、東宝映画「ニッポン無責任時代」に出演。大ヒットととなり、その後、数多くの「無責任シリーズ」に出演。数々のコミックソングも生み出していく。
1977年、東京宝塚劇場公演「王将」で主演。性格俳優として評価されるようになる。
1986年、「新・喜びも悲しみも幾歳月」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。
1990年、ヒット曲をメドレーにして歌った「スーダラ伝説」を発表。オリコントップ10入りを果たし、1967年以来の紅白への出場を果たした。
1993年、紫綬褒章受賞。
1997年、連続テレビ小説「甘辛しゃん」に出演している頃より肺気腫を患う。思うように声が出なくなりコンサート活動はこの年で打ち止めになった。
1999年、勲四等旭日小綬章受賞。
2003年、肺気腫の症状が悪化。舞台公演が出来なくなる。
2006年、盟友・青島幸男の通夜に車椅子で参列。これが最後に公の場に見せた姿となった。
2007年、1月に食欲不振を訴え入院。一時帰宅するも、再入院。3月27日午前10時41分、肺気腫による呼吸不全のため死去。80歳没。
「スーダラ節」
クレージーキャッツのデビュー曲にして代表曲。僧侶である父親から「これは親鸞の教えに通じる」と言われた話は有名。
「無責任一代男」
「ウンジャラゲ」 スイス民謡などにみられる一週間をテーマにした曲のパロディ。志村けんと田代まさしによるカバーも話題になった。
「だまって俺について来い」
「そのうちなんとかなるだろう」というフレーズが有名。曲中の笑い声は植木等のトレードマークとなった。