1951年4月2日、東京都中野区に生まれる。
中学生の頃、エレキブームに触発され、カバーバンド「No Name」を結成。
1966年、フォークブームに刺激を受け、「The Clover」を結成。
1970年、「RCサクセション」としてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。この頃はフォークグループだった。
なかなかバンドの活動がうまくいかない中、井上陽水との共作、かぐや姫への作詞提供などで厳しい時代を生き抜いた。
1976年、「ホリプロ」から「りぼん」に移籍。名作「シングル・マン」を発表。以降、バンドのエレキ化が進む。
1978年半ばごろ徐々にライブハウスでの人気が出始め、この頃よりグラムロックやパンク・ファッションに影響された風貌になる。
1980年、「雨あがりの夜空に」、「トランジスタ・ラジオ」、アルバム「RHAPSODY」のヒットでYMOと並び称されるようになる。
1982年、坂本龍一とシングル「い・け・な・いルージュマジック」を発表。鮮烈なビジュアルで話題になった。
1987年、初のソロアルバム「RAZOR SHARP」を発表。
1988年、RCサクセションのアルバム「COVERS」が発売中止になったことを受けて、清志郎とよく似たZERRYという人物がザ・タイマーズを結成。生放送で急遽曲目を変更し自身の曲を放送禁止にした一部の放送局を罵倒する歌を歌ったことは有名。
1991年、RCサクセション無期限活動休止。
1994年、プライベートスタジオ「ロックンロール研究所」を設立。俳優としての活動も始める。
2006年7月13日、喉頭がんで入院することを発表。すべての音楽活動を休止。
2008年より日本武道館にて「忌野清志郎 完全復活祭」を開催。活動を再開する。
FM802のキャンペーンソング「Oh! RADIO」を書き上げた2009年2月以降体調が悪化。
2009年5月1日、容態が急変。5月2日午前0時51分に癌性リンパ管症のため死去。58歳だった。
5月9日、ファンなどを対象にロック葬「忌野清志郎 AOYAMA ROCK’N ROLL SHOW」が行われ、hideに次ぐ4万3000万人の参列者が訪れた。
戒名は芸名と同じ「忌野清志郎」であった。
「雨あがりの夜空に」
RCサクセション快進撃の幕開けとなったシングル。
「トランジスタ・ラジオ」
不良ではないが授業をよく抜け出して屋上に行ってはタバコを吹かしていた清志郎の実体験をもとにした曲。
「ひとつだけ」
矢野顕子の名曲を本人とともに歌ったもの。「白い扉」を「黒い扉」と歌っている時もある。