1945年2月6日、ジャマイカはセント・アン教区、ナイン・マイルズに生まれる。
1959年、溶接工の仕事に就くも、仕事中に金属片が目に入りケガを負ったことをきっかけにミュージシャンになる決意を固めたボブは「レゲエの父」ジョー・ヒッグスが開く音楽教室に参加する。
1963年、ザ・ウェイラーズとして発表したシングル「Simmer Down」が8万枚の大ヒット。ボブの代表曲「One Love」もこの時期に作曲されている。
1972年、アイランド・レコードと契約、翌年メジャーデビューアルバム「Catch a Fire」を発表。7月にはアメリカツアーを行う。
1975年、メンバーを再編成。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再出発。
1976年、アルバム「Rastaman Vibration」を発表。政治闘争などを批判した「Rat Race」がジャマイカで大ヒット。12月3日混迷する祖国ジャマイカに微笑みを与えようと企画した「スマイル・ジャマイカ・コンサート」のリハーサル中、銃で武装した6人の男が襲撃。ボブは胸と腕を撃たれるが、死者は出なかった。2日後ケガにもかかわらずコンサートは予定通り行われた。
1978年、ジャマイカはキングストンで「ワン・ラブ・ピース・コンサート」に出演。コンサートを見ていたジャマイカの2大政党の党首をステージに招き、和解の握手をさせた。
1979年7月21日、ボストンで黒人解放運動を支援するアマンドラ慈善コンサートに出演。アパルトヘイトに対する強い反対の意を示した。
1980年、ワールドツアーを予定していた手前、1977年に親指に出来た悪性腫瘍を宗教上の理由で切断しなかったために全身に転移した腫瘍が脳にまで達し手が付けられない程に悪化。
1981年5月11日、放射線療法やトレードマークのドレッドを切り落としての集中治療も甲斐なく、妻と母に見守られながら他界。最後の言葉は息子ジギーへ向けた「お金は命を買えない」だった。
1984年5月、ベストアルバム「Legend」がアイランド・レコードから発売。このアルバムは2020年1月現在、ビルボール200アルバムチャートで合計609週チャートイン。レゲエ・アルバム史上最高の売り上げを今なお記録し続けている。
「One Love」
ボブ・マーリーのみならず、レゲエをも代表する名曲
「Is This Love」
純粋な愛を歌った歌詞に加え、微笑ましいMVも魅力的な作品。
「Concrete Jungle」
メジャーデビューアルバム「Catch a Fire」冒頭を飾る作品。サルサパーカッショニストペッカーがレゲエ・ダブアルバム「ペッカー・パワー」でカバーしている。