認知症だった祖父の思い出
子どもの頃、目覚まし時計のアラームをかけて「爆弾だ~!」と言っては、何度も祖父を驚かせた。
自分にとっては良き遊び相手の祖父だったのだが、成人になってからその祖父が認知症だったと知ることになる。
しっかりと食事をした後に、近所の人に「うちの嫁がご飯をたべさせてくれない」と不平を言ったり、食卓では自分の目の前のものを食べないで、家族の食べ物に手を出してみたり・・・。
あきらかに「認知症」と診断される症状なのだと思うが、当時は「認知症」という言葉も存在せず、「おじいちゃん、ボケちゃったね」といった感じの扱いだったのだと思う。
東日本大震災をきっかけに父母も認知症に
父の認知症の引き金となったのは東日本大震災だった。
当時、軽い脳梗塞を体験した父はリハビリの成果もあって自転車に乗れるようになっていた。東日本大震災が起きて福島から避難して来た叔父の話から、家の墓所がどうなったか心配になった父。母と自転車に乗って墓所に出かけた帰りに自転車で転倒して脳挫傷を引き起こす。それによって起きた脳内出血で認知機能が著しく低下。数年後、アルツハイマーと診断されるようになる。
運動能力も高く、気丈だった母は、デイサービスに行きたくないとぐずる父に根気よくつきあって介護を続けた。だが、入浴中に倒れた父をどうすることもできなくなり、在宅での介護を断念。特別養護老人ホームに父を委ねる決断をする。
「本当なら自分が最後まで面倒をみないといけないのに、自分だけが楽しむわけにはいかない」
そう思いこんだ母は友だちとの外出を控えるようになる。そうしたストレスから睡眠薬をもらいながら過ごすようになる。
自分の親の認知症については災害時の「正常性バイアス」のように都合の悪い情報を過小評価してしまいがちだ。我が家でもそんな状態が続き、自分が留守の間に母が発作のような症状を起こし、初めて認知症を疑うことになった。
検査の結果、母もアルツハイマーであることがわかり、家族での見守りの期間を経て、コロナの感染拡大とともに父と同じ施設に入所することになった。
認知症の祖父、両親を持った自分にやれることは?
母が認知症であることがわかり、最初の3年は見守り介護を続けた。
母の場合、アルツハイマーによって起こる記憶障害によって、何度も同じものを買い続けた。お酒やパンなどの特定の商品がテーブルの上にならんでいく。
母にそのことを注意しても買った事自体を忘れている。「私は知らない。あんたたちじゃないか」と逆切れされることもしばしばあった。
そのためにスーパーマーケットに行く母を家族で見はったり、財布には必要最低限のお金しか入れなかった。不安にかられる母は財布にお金がないために、私のお金を返してと何度も言いに来る。それがまた行動・心理症状(BPSD)を悪化させて、家を飛び出したり、暴言につながって苦労をした。
そんな時に音楽が認知症の緩和に良いらしいということを教えてくれる人がいた。
たしかに母が好きだった美空ひばりなどの歌謡曲を一緒に聴いていると、やさしかった昔の母に戻り、暴言などの症状は治まってくる。そんな母を見て、音楽を認知症のケアに活用することを手がけることにして現在を迎えた。
認知症予備軍としてやるべきこと。
そんな自分も今年で60歳還暦を迎えた。
認知症は20~25年という歳月を経て発症をする。父や母が発症した80歳を迎えるまでに20年を切った。すでに自分のカラダのなかではアルツハイマーにつながる変化が起き始めているのだろう。
幸いなことに自分の場合、音楽を通した認知症ケアの活動を通して、様々なやり方で認知症の予防をしているドクターたちと出会った。そうした出会いを通して知った情報はこれまで記事として人に伝えてきた。
だが自分ももう認知症予防の当事者だ。
祖父や父母のように自分も認知症になることを想定して、社会を認知症にやさしくする取り組みも手がける。だがその一方、子どもたちに同じ苦労をさせないためにも自分自身の認知症予防の取り組みを始めるべき時だ。
還暦を迎えた頃から、自分自身の暮らしを通して認知症予防の様々なアクションを実験、体験し、それを次に来る人たちのために伝えていこうと思うようになった。
まず音楽を楽しむことから皆さんに伝えて行きたいと思う。
体験 / 文章 上岡 裕