高齢の親や親族、身内の身の回りの世話、人の手が要りようになるタイミングは、当事者の状態や意思、置かれている環境などによってさまざま。夫婦やパートナーをはじめ実子や実子の家族の状況によって一人ひとりみんな違います。
親と離れて暮らしている時間が長くなると、「親の暮らし」は、たまの帰省では見えてこないこと、気づかないことの方が多いくらいです。
今はどんな食べ物を好んで食べるのか、
日中は何をして過ごしているのか、
何を好きでいるのか、
今、よく見てるテレビ番組は何か
今、病院にかかっているのか
どんな薬を飲んでいるのか
不便に思っていることはあるのか?それは何か?
今、大切にしていることは何か?
・・・このようなこと、聞こうにもわざわざ口に出して尋ねることではないのが家族であり親子です。何を今さら、と聞かれた方も言わないものでしょう、きっと。
「子どもはいくつになっても『子ども』」という親の視点がいつまでもあるように、子ども側も「親はいくつになっても『親』」という視座からなかなか抜け出せないように思います。そのために親の老をなかなか認められないという葛藤を、子どもは持つことが多いです。
「あんなしっかりしていたのに」「あんなにきれい好きだったのに」「ちゃんとしていたのに」・・という残念なような悔しいようや情けないような悲しいような、そんな気持ちを高齢になった親に対して、感じたことはありませんか?
認知症という症状が現れ出した親の様子に、ショックを受け、認めたがらない子どもは少なくありません。当人が認めたがらないのも当然だし、家族も認めたくないのは当然のこと。
子どもが感じるそのショックとその葛藤は当たり前の反応です。
なぜって、その人は自分が生まれた時から、よくもわるくも親は「親」であり、常に自分の前をあゆみ、道を示し指導し、善悪を説いて価値観を見て、そして何より世話を焼いて、育ててくれたのだから。
話を少し変えて。
今月8日木曜日に、昨年4月に東京・池袋で起こった、当時87歳の被告人が運転していた車による大惨事事故「池袋暴走事故」の初公判が東京地裁で開かれました。
ここで、被告人側は「車の操作には問題はなく、車に異常」と主張し、「過失運転致傷は成立しない」とし無罪を主張しています。
このニュースが流れた後、しばしネットでは被害者遺族を思ってか、過激な厳罰を求める言葉が飛び交い、翌日以降もさまざまなニュースが流れ、引き続き注目されています。
悲惨な事故として被害者に心を寄せる中で、高齢の親を介護している、見ている子どもたちは緊張感を持って、こうした高齢者の運転事故と日本社会のいわゆる「世間」の声に耳を澄ませています。
なぜなら(免許証を持っていたら尚更)、
いつ自分の親が同じことを起こすか、わからない・・・という不安があるため。
その背景には、いったん事故を起こせば、「家族はなぜ運転を止めさせなかったのか」という議論になり、家族に社会的制裁が加わってしまう社会だからです。
被害者やその家族ももちろんですが、加害者家族もまた大きく人生を揺さぶられる事態に陥ってしまう不安を持っています。
ご存知のように、近年では運転免許保有者も高齢化が進み、運転に対して様々な見直しがされています。「運転免許証の自主返納制度」があり、各都道府県警察の各運転免許センターで手続きをすることができます(当人あるいは代理人による手続きが可能)。
こうした制度があっても、
子どもが親に向かって「免許証を返納したほうがいい」とは言いにくいのが心情です。その言葉を投げかけるのに、とても勇気がいる人もいます。
一方で、子どもに言われても聞き入れない親(人)もいます。怒り出して話を聞かないということも。そのやりとりが口論になり、喧嘩をくり返して、お互い嫌な気持ちになるので言うのを諦めたというのもよく聞く話です。
認知症の症状やその他の疾患があるような場合は、これ以上の運転は事故の心配があると思った家族が免許証を取り上げる、車のキーを隠すなどをしても、見つけ出して運転してしまうことはよくあること。
果てはタイヤをパンクさせたり、本人には内緒で車を売ってしまったりと大きな手段をとる家族さえもいます。
なぜそこまで発展してしまうのでしょうか。
運転免許証を手放さない理由は、人それぞれ違います。
でも手放したくない理由もあるのです、きっと。
自分の車が唯一の移動手段という地域性もあります。
車のある生活が、その人にとって移動手段以上の価値を持つ人もいます。
これまでの自分を支えてきた、暮らしを支え家族を養ってきたプライドを象徴するものという人もいます。
男性だけではなく女性であっても、
これまでの家庭生活で、逃げ場のない暮らしの中で、車での外出が唯一の息抜きでストレス発散だったという人もいます。
―――こうした人たちにとって運転免許は単なる免許証、身分証明書のような紙切れ一枚ではないはずです。
運転することが何かの、生きる拠り所になっている人生、という人はいます。
そうした一面を持っているのが人であり、それが自分の親の一面でもあるかもしれません。
高齢者の運転事故は社会問題となり、自主返納を推進する働きが増えています。
返納した証明を見せることで、公共交通機関の利用や買い物、美術館などの入場が割り引くような特典サービスがあります。
75歳以上の高齢者が免許を更新する時に義務付けられている「認知機能検査」もあります。大阪府では今年4月に検査の態勢を強化するために、「高齢運転者等支援室」を設け、自治体と連携し、検査に何からが見つかった返納者には、地域包括やケアマネージャーに繋ぎ、運転免許証の返納によって難しくなる買い物や外出などを支援する仕組みを活用します。
返納者の経験を聞ける機会を設けているところもあると聞きます。
妻や子どもなどの家族から返納を勧められても聞かなかったけれど年齢の近い運転者だった人から返納までの経緯や体験を聞くことで、自分も、と思えたという人も。同年代や同性の話だと聞く耳が持てる、という心情もわかります。
子どもである自分が言っても聞かないなら、親の友人や親戚などに相談してみて力を借りるのもいいかもしれません。
交通事故は悲劇です。怪我であっても亡くなってしまっても。
被害者家族にとっても。そして加害者家族にとっても。
今回の事故で、こうしたことをくり返したくない、再発防止を願う被害者遺族の声は、加害者家族になりうる高齢の親を持つ私たちのそれです。
高齢者の運転免許証返納が、高齢者の運転事故を未然に防ぐ一歩と明らかなのであれば、免許証保有の当人たちの心情を大切にすること、そして返納後の暮らしも立ち行くようなインフラの整備も求められると思います。
家族として、子として親の暮らしについて考えてみる機会にしてみませんか。
参考:
『「上級国民」大批判のウラで、池袋暴走事故の「加害者家族」に起きていたこと』
文:井上晶子