1943年3月15日、米テキサス州デントンに生まれる。後にカリフォルニア州ヴァレーホに移住し、兄妹らとザ・スチュアート・フォーというバンドを結成。教会でゴスペルを歌っていた。
高校時代に複数のバンドに参加した後、1960年代中期、カリフォルニア州オークランドのラジオ局KSOLでDJを務め、レコードプロデューサーも務めた。
1966年頃、スライ&ザ・ファミリー・ストーンを結成。デビューアルバム「新しい世界」を発表。ロック、ソウル、R&B、サイケデリックなど多彩な要素を飲み込んだ作品であったが、セールスは全く振るわず失敗に終わる。
その後、レコード会社からの要求で作られたポップな「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」がヒット。だが、1968年に発表したアルバム「ライフ」の売上は芳しくなかった。同年11月に発表した「エヴリデイ・ピープル」がビルボード1位の大ヒットとなり、メジャーアーティストの仲間入りを果たす。
1969年、「スタンド!」を発表。愛と平和、そして平等を高らかに歌い上げたこのアルバムは300万枚を超える大ヒットとなる。立て続けにシングル3枚をすべてビルボード5位圏内に送り込み、アルバムの発表も間近かと思われた。だが、この頃からスライは売り上げ至上主義のレコード会社からの要求や、スライの人気をブラックパワー運動に利用したいブラックパンサー党からの圧力によるストレスをドラッグで解消するようになっていった。
1971年に発表された「暴動」では、愛と平和のメッセージは消え去り、黒人家庭の問題「ファミリー・アフェア」や、内心の吐露「ジャスト・ライク・ア・ベイビー」など、極めて私小説的な内容のファンクアルバムとなった。
1973年、「フレッシュ」を発表。冒頭から「コークはやめてペプシにしたぜ」というジョークが飛び出すドラッグからの「復活」を表明するアルバムとなった。
1974年、結婚。子どもに恵まれたスライは「スモール・トーク」を発表。スティービー・ワンダーの「可愛いアイシャ」より2年早く赤ちゃんの声を曲に取り入れる。この頃よりライブをすっぽかすようになり、プロモーターに愛想をつかされ始める。
1975年、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演で席が8分の1も埋まらずコンサートは大失敗に終わる。ここにスライ&ザ・ファミリー・ストーンは活動の幕を下ろすことになる。
そして、初のソロアルバム「ハイ・オン・ユー」を発表。オリジナルメンバーはもはやシンシアというトランペット奏者一人のみという状況で制作されたこの作品は今日では佳作という評価を下されている。
以降、ファミリー・ストーン名義で3枚のアルバムが発表される。いずれも「復活」をアピールする作品であったが、彼のキャリアが再び輝くことはなかった。
「エヴリデイ・ピープル」
スライの思想を一番分かりやすく反映している。初期のスラップベースを録音したものとしても有名。
「サンキュー」
大きく作風を変える「暴動」前に録音された。歌詞の内容も厭世的になっている。スラップベース発祥の曲としても有名。
「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」
スライにとって初めてのヒット曲。初期の代表曲。